「白人の差別主義に怒ること」と「クジラの数を正確に数えること」は、全然別ごと

当該の報道はこちら。


05月12日(たぶん)ITプロ(日経エコロジー
連載 環境思想で考える
第11回 反捕鯨に見る「自然の権利」
 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080512/301274/


 なんとなくミスリード

を、誘っているように見えるのは、気のせいだろうか。
たとえば、ここ。

>「捕鯨反対」といっても,捕鯨支持の科学的主張に対し,かつては非常に稚拙な反論しかしてこなかった

これ、本当にそうなんだろうか。自分も1970年代当時の捕鯨反対に関する事情についてそれほど知っているとは言いがたいのだが、その大昔の反捕鯨に関するときにも「クジラの数が減っているから」という理由による捕鯨反対の論は耳にした記憶がある。「白人によるクジラは頭がいい云々かわいい云々論」だけではなく。


てか、ここんとこ、この書き手にとっては、オリビアニュートンジョン(毛皮を着て反捕鯨を言っていたってこのヒトのことだろ? なんで名前伏せてんの? んな有名な;けれども古い;話)のインパクトが大で、他の印象がかすれてしまったんじゃないか、と推測してしまったのだが。


それと、捕鯨支持が科学的主張かどうかを全く疑うことなく検証もなく言い切ってしまうのも、なんだかなぁ。ニホン贔屓の色眼鏡丸出しの形容はというかなんというか。
捕鯨のバカどもの行動や言動による嫌悪感の反動で、「反捕鯨に反対」する方に賛同するってのも頭の悪い話、単なる思考停止だと思うんだが。
と、いうか反捕鯨の反対は捕鯨賛成である、というのも世の中があまりにも簡略化されすぎ。二項対立の理解の仕方は、手っ取り早く理解する(つもりになる)分には効率的な発想なのだが、いかんせんそんなに簡単に割り切れるもんでもないのが世の中というもの。しかも、そこで示されているるのが、反捕鯨の中でもほんの一部勢力でしかないモノタチだし(それを反捕鯨の全部だ、というには無理があるほどの)。
ソノ手のバカな白人どもの多文化への非寛容や教養のなさ、有色人種への根拠のない優越感とそれと同根の差別感情などと、クジラや海洋生態系、環境問題といったもんとは、全く別の話なんだから、何かに反対するにしてもそこんところは区別して理論を構築していくしかないと思う。
差別主義者の白人のバカどもを諫めることと反捕鯨を表明するという立場は、充分に両立すると思うのだが。


それと文章全体が、わざとなのか書き手が混乱しているのかは不明だが、1970年代の話と21世紀たる2008年の話をほとんど区別しないというか、読み手に同じ印象を抱かせるような書き方になっているのが、なんというか。もうちょっと推敲しろよ、と思ったり。40年近い差がある話なのだから、これをごっちゃにして、どちらも同じ「反捕鯨」で括って喋るのには、無理があるだろう。いくらなんでも。


具体的にはここんとことか。

>そもそも捕鯨反対への嫌悪感は,それを言い立てているのが米国やオーストラリアであることにも一因がある。両国は膨大なエネルギーを消費し,毎日牛肉を食べ,米国については京都議定書に調印すらしていない。やや乱暴な表現で言えば「おめえらに言われたかねえや」となる

捕鯨を言い立てているのはオージー・米国だけではなく、温暖化対策についてはニホン程度かあるいはそれ以上に取り組んでいる欧州各国も(除く北欧)反捕鯨の立場だけどな。混同しているヒトも多いかもしれないが、グリーンピースは欧州が本拠地だし。
ちなみに米国は、海軍基地の近くに棲むクジラについて、潜水艦のソナーに邪魔だからクジラを殺せ、とまで言い切っている事例もある。最近の話で。国家として、それほど反捕鯨に熱心なわけではない。
過去から反捕鯨を言っている国があるという事例と、最近の温暖化対策を同じ時制で括って同じ段落で語るとは、時間概念の把握の仕方が雑すぎ。


で、初めの方であげた話にちょっと戻るけれども。
1970年代については実はあんまり自信がないのだけれども、少なくとも現在の反捕鯨の主な活動理由は「賢くてかわいいクジラ」云々ではなく「クジラの数が減っている」「海洋生態系の保全」の方が主流だろう。
一番目立った、というか悪目立ちをしたシー・シェパードの大バカどもは明らかににそこをごっちゃにした異文化憎悪(差別どころではない、あれは)に基づく行為と思われるが、マスコミ的に目立つ反捕鯨だけが反捕鯨のすべてではない。


んでもって、シー・シェパードはともかく、グリーンピースくらいは、都内(新宿駅から徒歩圏)に事務所があるのだから、取材に行けばいいのに(シー・シェパードは日本の支部がないようなので)。書き手が首都圏から遠くにお住まいならば、電話やメールという手もある。これでは手抜き? と言われても仕方がないような気が。


まして、捕鯨反対を言っている動物保護団体(愛護団体にあらず)は、有名どころではWWFグリーンピースよりも日本の環境団体としてははるかに大規模)やIFAW(日本ではかなり地味だが、これも世界的な団体だ)など、他にも複数あるのだが、それらの活動、また捕鯨を推進する日本政府側の言い分、そこを後押しする捕鯨業界の思惑やお金の動きなどは、どの程度調べているのだろうか。というか、全く調べた形跡がないのも、不思議っちゃー不思議だ。


ともあれ。
恐らく、この書き手の本当に言いたかったことは後半にある「自然の権利」の紹介なのだろうけれども、その前振りとなっている(タイトルにも掲げている)捕鯨問題全体への認識があまりにもいいかげん、というか個人的体験に基づく固定観念と古い情報に基づく想像がそのまんま垂れ流しになっているので、いかんせん信用できない。本編たる後半がどんなにまともなことを言っていたとしても、前振りがこれでは、その内容への信頼はゼロどころかマイナスだ。ここまで説得力のない原稿を(商業原稿で)見たのは、正直 久しぶり。
同じ動物の権利を言いたいのであれば、捕鯨に触れるのはほんまに導入程度にして、あとは青少年による動物虐待だとか(これもまた多くのヒトが高い関心を持つ事例だ)、あるいは書き手も出しているような肉食の問題だけに絞って論を展開した方が、「動物の権利」についてのずっと筋の通ったマシな読み物に収まったものと思う。
捕鯨について商業原稿的にきちんとしたことを言いたいのであれば、基礎調査ゼロ、取材ゼロの「個人的感想」の垂れ流しはやめた方がいいと思う。
それとも、実は、昔バカな白人どもに抱かされた不愉快な感情やトラウマを、今の反捕鯨にぶつけてすっきりしたかっただけ、というのならば、この展開になったのまだ少しは頷けるのだけれども。

.